陳侃の「使琉球録」

「過平嘉山,過釣魚嶼,過黄毛嶼,過赤嶼。目不暇接,一昼夜兼三日之路。
夷舟帆小,不能及,矣在後。
十一日夕、見右〔古〕米山,乃属琉球者。夷人歌舞於舟,喜達於家。 夜行徹暁,風転而東,進寸退尺,失其故処。
又竟一日始至其山。有夷人駕船来問,夷通事與之語而去。」


訳文「平嘉山を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぎる。目を接する暇がないほどの速さで、
一昼夜で三日分の航路を進んだ。琉球人の舟は帆が小さいので、追いつくことができず、後に遅れてしまった。
十一日の夕方、古米山〔久米島のこと〕が見えたが、すなわち琉球に属するものである。
琉球人は舟で歌舞して故郷に到達したことを喜んでいる。夜行し明け方まで徹したが、
風が東に向きを転じたため、一寸進んだと思うと一尺退くという具合で、元の場所から失してしまい、
一日かけてようやくその山〔久米島〕にいたった。琉球人が船に乗ってやってきて問い、
琉球の通訳と話をしたのち、去って行った。」


 ここで注目すべきことは、陳侃ら冊封使の船に同航した琉球船に乗っていた琉球人たちが
古米山(久米島)を目撃したことをもって故郷に戻ったと喜んでいることと、
久米島には琉球側の役人がいて、中国からの使節の到来を待ち受けていたことである。


尖閣列島・釣魚島問題をどう見るか――試される21世紀に生きるわれわれの英知
村田忠禧(横浜国立大学)
http://www.geocities.jp/ktakai22/murata.html

より。